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ボスポラスの海戦(ぼすぽらすのかいせん)は、第一次世界大戦中の1915年4月27日(ユリウス暦。以下の日付同じ。グレゴリオ暦では5月10日)にボスポラス海峡の黒海側入り口でロシア帝国海軍黒海艦隊とオスマン帝国海軍とのあいだに発生した海戦である。サールィチ岬の海戦に続き、双方の主力艦同士が正面から衝突した2度目の戦闘であった。 == 経過 == === ロシア黒海艦隊の出撃 === 1915年4月24日〔当時ロシアで使用されていたユリウス暦による。現代のグレゴリオ暦では5月7日に当たる。〕、黒海艦隊司令官A・A・エベルガールト海軍中将自ら指揮するロシア帝国艦隊はオスマン帝国の炭鉱地区やボスポラス堡塁を攻撃するために、黒海の南西海域に向けてセヴァストーポリを出港した。連合艦隊は、前弩級戦艦〔当時のロシア帝国海軍では、戦列艦と称していた。〕「エフスターフィイ」を先頭に、「イオアン・ズラトウースト」、「パンテレイモン」、「トリー・スヴャチーチェリャ」、「ロスチスラフ」、防護巡洋艦「カグール」、「パーミャチ・メルクーリヤ」、水上機を搭載した「アルマース」と水上機母艦〔当時のロシア帝国海軍では水上機輸送艦と称していた。〕「インペラートル・アレクサンドル1世」、機雷敷設艦「クセーニヤ大公妃」、艦隊水雷艇〔当時のロシア帝国海軍で、いわゆる駆逐艦のこと。〕部隊、ならびに掃海艦からなっていた。 4月26日〔当時ロシアで使用されていたユリウス暦による。グレゴリオ暦では5月9日に当たる。〕、艦隊水雷艇「デールスキイ」と「ベスポコーイヌイ」は港へ侵入し、港湾施設への砲撃を実施した。両艦は、さらにオスマン帝国の蒸気船「セリャニク」を撃沈した。エレグリ地区においては、巡洋艦「パーミャチ・メルクーリヤ」が2 隻の蒸気船と27 隻の帆船を撃沈した。この攻撃的な作戦行動の結果、オスマン帝国はトン数で見た場合、すでに持てる輸送船の3分の1を失ったことになった。 午前10時、攻撃の報がエレグリからイスタンブルへ知らされたが、驚きのあまり司令官は「ロシア軍の上陸が始まった」と誤って報告した。事態に対処するためオスマン帝国海軍の主力である巡洋戦艦「ヤウズ・スルタン・セリム」が速やかに出港したが、ロシア艦隊はボスポラスに向かって沿岸砲台から離れたため、行き違いになった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ボスポラスの海戦 (1915年4月)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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